2006年 07月 28日
銀河最終便 抄 |
流されて来のは一つの舟であり 櫂も櫓もない小舟であった
〈夕焼けも三日も見れば見倦きるよ〉薄水色の空の三日月
美しい空と夕陽を追いかけてそしてそれからどうなるという
風になる! ある日突然そう思う 地球を焼いてくる炎が思う
一生には悲しい日々が何度かある 流れるように飛ぶ鳥を見た
いつだめになるかもしれない灰色の鳥は微かに血を滲ませて
これからの悲運の時代を傷ついた鳥はどうして生きるのだろう
時にはもうすべてが終ったと思う 風が焔を吹き消している
シャガールの恋人たちは空を飛ぶ 壁にもたれて私は唾る
玉葱の芯には何もないゆえにあるがままなる炉辺の幸福
老いる前に時々〈空虚〉もやってきて小半時ほどどこかへ消える
魂の抜けゆく真昼ひっそりと脱皮している蛇がいる
切れ切れのあるかなきかの生命線〈老婦人の夏〉はいつまで
青春が遥か昔であったこと 無為と無能がゆるされたこと
魂の古巣のような背表紙の金文字指でたどる図書室
甦る春があるなら死のように眠っていようね冬の陽だまり
幸福と思えば思える冬の日のその陽だまりに影さしている
陽炎が立つから春が来たのだと思ったあれは冬の陽炎
黄昏に忘れた記憶蘇える 風が木の梢(うれ)ゆらして過ぎて
最後には何にも無くなってしまう 終りの時が近づいている
《午前晴、正午浅草、夜小雨》、晩年に降る荷風の小雨
雨が降る とても静かに雨が降る 眠りなさいと夜を降る雨
この夏の心弱りか予期しない 雨のような別れのためか
あの人も私も歳をとったのだ 育った街も海も変って
私は正常ゆえに虚しいと 汚れ知らない夏の日の蘭
〈一つ星てんとう虫は毒がある〉夕暮来ればその名も消える
〈二つ星てんとう虫も毒がある〉七星てんとう虫の幸福
笛を吹く少年笛は何の笛 失くした夢を母に呼ぶ笛
今よりはまだもう少し若かった父に似ている少年の顔
父方の、母方の血を受け継いで その横顔の相似る姉弟
いつの日かあなたのために歌う歌〈さよならだけが人生ならば〉
私の心は消えてしまうから雨のようには歌えないから
眠れない夜や逢魔が時のため涙ぐむ日の日没のため
私の中にあなたが生まれた日 風が生まれた 風は旅人
私がいつか死んでも日付のない宛名すらない手紙のように
十五年前にはこの街の空を知らず かかる日暮を思いもせずに
さりながらさはさりながら何事かあきらめていた私がいた
見上げては空より青い海の青 海より青い風の夕暮れ
〈多摩川の清き流れ〉と子は歌う〈茅渟の浦幸う里〉と我は歌えり
街に降る雨は車の音で知る 夜降る雨は夜の音して
ハンガリー舞曲のように悲から喜へ変り身早く裏切らんとす
哀切でメランコリックな劇に似て昔の恋の痛みのようで
さしあたり口あたりよきシャーベット熱ある朝の身を起こすため
何よりもまどろむことの心地よさ 降る霧雨の午前十時に
恋なくて私は盲い夢なくて私は狂うそれと知らずに
簡潔な主題のための四楽章、第三楽章からの憂欝
惨憺たる希望よ薄明の絶望よ 私は何で生きようか風よ
黄昏に蒐めた夢を焚火する 巨いなる手の見え隠れして
今閉じた人の心をノックする 秋の木の実を落として風が
ほんとうはあなたに告げたかったこと 銀河最終便で届ける
<淡々とこのかなしみに堪えること>イエティの棲むネパールの空
美しい空というには怖すぎるこのごろそんな夕焼けが多い
微笑んでいるのは悪魔かもしれず 優しい悪魔であるかもしれず
哀しみはエゴン・シーレの赤と黒 尼僧に触れている枢機卿
雪の峰、風の荒野を越えてくる サラマンドラは火を恋いながら
風の神(レラ・カムイ) 雪を沈める湖の流され白鳥、眠れる白鳥
暁の共同墓地のモーツァルト 無邪気な鳥は撃たれやすくて
もがいたら羽撃いたなら逃げられる? 天国までは遠すぎるけれど
月読みの草牧原の白き馬、天翔るなら銀河を超えて
君がまだ歌わない歌があって 天の飼い葉を食んでいるところ
私は桜の花が嫌いだと誰かが歌う 低き声にて
内側から溶かしていこう 軟弱な僕らは戦争には行かない
私を滅ぼすものが世界なら、他者なら死なら 赤き口あけて
その朝、夏降る雪のように降る 暗き窓辺のエゴの木の花
夢に降る エゴの真白い花びらが 午後燦々と陽の照る中を
何度目の夏がめぐってきたのでしょう 真昼の星になったのですか
〈私はもう私ではいられない〉破滅してゆく五月の夕陽
葛藤の巷に降りてくる時に震えはじめる六月の雨
ためらいてふるえて繊き雨は降る 夢見ることをあきらめて降る
アイオロス! 風の支配者ならば訊く ここ吹く風はどこへ行くのか
焼きはらう野はまだあるか 薙ぎはらう百合のようなる心はあるか
鞠を蹴り鞠に遊んだ大納言 蹴鞠に倦きて死にたるという
一生は長すぎたのかも知れないね 千日ならば愉しかりしを
出逢いたいものなら初めにあったのだ 無関心にも似て過ぎた日に
まだ夢の亡骸ならばここにある 残骸だから苦しまないよ
一枚の紙片が炎になる炉心 その炎から飛び立つ小鳥
迷宮の森をさまよう一羽ゆえ 羽より軽く生きられもせず
どのようにたとえ一生が終っても北をめざして飛ぶ鳥がいる
もう一度風のささやき楡は聴く 北の斜面の雪消えるころ
一枚の絵皿を私は持っています 〈実朝出帆〉と名付けています
擦りながら浅瀬を渡る霧の船 すでに座礁は時間の問題
砂浜にうちすてられた船がある 海を知らずに朽ち果てる船
沈黙が怖くて何か話してる 亡霊を見たなんて言えない
そんなにも遠いところへ行っていた 躙り口から向こうは密室
こんなことナンセンスだというように位階三段跳びの実朝
でもこれで禁忌が一つ増えたのだ あなたに無礼講とはいかない
形式が絶対であるわけはない ところで太陽系はどうする
距 離(ディスタンス)とっても大事と思うんだ 誰にも近づきすぎてはいけない
木乃伊取り、埴輪になって眠る頃 帝の国の日はまた昇る
甲斐の国、酒折の宮に照る日影 ヤマトタケルは白鳥になる
かたつむりそんなに薄い殻の家 すぐに毀れてしまうだろうに
アメフラシ、雨を降らせて下さいな 答えがどこにも見つからないよ
何もかもご存じだったのですね 手を貸して下さればよかったのに
《世の中は鏡に映る影にあれや》 夢と思えば生きてもゆける
《アカルサハ、ホロビノ姿》 見苦しく張り裂けてゆく殿様蛙
精神的外傷なんてなんでもない もうすぐ木っ端微塵になるよ
疲れたら枯葉のマント被(き)て眠れ 光の春は遠いのだから
太陽が眩しいのならだるいなら オブローモフのようにおやすみ
素裸で投げ出されている点と線 サム・フランシスのように無防備
漱石やマイケル・ファラデーとは違う 森林太郎的生き方
大事だと思ったものが石ころで おかげでとっても平穏な日々
勾玉は胎児の形 月満ちて生まれるまでの幼い星か
ラクリモサ ただ簡潔であることと ああこんなにも少ない音符
すでにもう半券ばかり 大方は見終わっているこの世の舞台
あの頃の私は「現実」にまだ平手打ちされたくらいの若さ
母親であるアザラシは死んでいる 気息奄々波打ち際で
まいまいがまいまいであるそのためにぬめりと殻が必要である
生きているこの荷が重い蝸牛、銀河に飛んでゆけよ砕けて
by sho3id
| 2006-07-28 13:10
| 短歌